2009年08月26日

がんは「雑草」なのか?

我が家の庭は花壇と野菜畑が同居しています。
毎年、いんげんやピーマンやトマトと一緒にバラやダリアや百日草が咲きます。
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いつもなら野菜は美味しく実り、花々は美しく咲き誇っている自慢の庭なのですが、今年は長雨と日照不足でどちらもダメ

いつもはかなり頑張って手入れをするのですが、今年はまるでやる気なしです。

しかし、雑草は見事に繁殖しています。

がんは雑草なのかな?とうっとうしくつぶやくこの頃です。

負けてたまるか(ウウウウウ~~ン)。
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2009年08月19日

黒ツグミが独り立ちした日

ストラスブールのあるアルザス地方(L'Alsace)は戦争のためにドイツに占領されたりフランスに戻ったり、幾度もの戦いの舞台になったのですが、そのために軍事拠点としての立派な要塞が作られ、それが今でも残っていて樹木が植えられ「要塞公園」(Parc de la Citadelle)と呼ばれれて市民に親しまれています。

この要塞はルイ14世に仕えた軍人建設技術者ヴォーバン(Seigneur de Vauban)
が五角形の星形に設計したもので、北海道の五稜郭はこのスタイルを真似たと言われています。今でもその星型の2つ角が完全な形で残っていますが、ほかの部分はあまり確かではないのですが、度重なる戦争など長い年月によって失われてしまったと思われます。
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その公園の中にある美しい流れに沿った小径を人々が犬や子供と一緒にいつも散歩しています。
私たちはこの公園を「私の庭」と呼んでいました。というのも公園を見下ろす建物の12階に住んでいていたからです。

ある日曜日いつものように子供たちと公園を散歩していると、高い木から何かが突然落ちてきました。よく見るとそれは木の上の鳥の巣から落ちてきた小鳥の赤ちゃんだったのです。さあ大変、娘たちはおおさわぎをして家に連れて帰りました。いったい何を食べさせたらいいか分かりません。とにかくソーセージをうどんのようにして与えると食べてくれました。それからはミミズさがしの毎日。ついに近くの乗馬場の馬糞の中にミミズがたくさんいることを発見。大きな生きたミミズは赤ちゃんにとっては大変なことで、のみこんではまたミミズが這い出してくる、それをまたのみこむ、そしてやっとのみこんでしまうと、すやすやと寝てしまうというような毎日でした。

その赤ちゃん鳥には娘たち二人の名前一字づつとってをとって「フサ」と名付けました。

娘たちを親と思ったのか、とてもなついて、それからあっというまに大きくなります。
最初は薄茶色だったフサは真っ黒になり、あっというまにへやのなかで少しだけ飛べるようになったのです。

フサのように巣から落とされた鳥は珍しくないらしく、たいていは死んでしまうのだそうです。

春先のレンギョウ(Forsythia)の咲く頃は公園の川の中で水鳥の親子が列を作って泳いでいます。白鳥もつがいで泳いでいます。そんなのどかな景色がこの公園では普通に見られるのです。木々はまだ葉をつけておらず、つぼみが先のほうに膨らんでいるくらいです。北海道のように一度に春の訪れを身近に迎えたある日、子供たちが見ている中、フサはばたばたと羽を動かし始めました(フサはクロツグミmerleでした)。
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飛べるか飛べないかという状態でしたが、ある日その小鳥はレースのかかったフランス窓から自分の力で一気に飛び降りていなくなってしまったのです。

それっきり、でした。

子供たちは長い間、公園に行くたびにいなくなったフサを探して、ミミズをさがすクロツグミを見るたびに声を掛けたのです。

フサは無事に子孫を残したのかな?それは私と娘たちの希望です。

この公園はいつも私たちの生活ともにあり、素晴らしい思い出の大事な舞台としていまもよく思い出します。
posted by ようこ先生 at 19:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

白アスパラを食べられなかった痛恨の春

チェルノブイリ原子力発電所事故が起こったのは1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)。
ちょうど私たちがストラスブールに滞在していた頃のことです。
あの事故はかなり距離の離れたフランスの日常生活にもいろんな形で大きな影響があったのです。

私たちが暮らしていたフランス東部、アルザス地方の中心都市、ストラスブールにはほかの多くのフランスの町と同じように週に1度色々な通りに決まった曜日に朝市(marché)が立ちます。
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朝の5時から昼頃まで、近郊の村から農家の人たち自慢の生産物を持って来てテントの中に並べます。朝早く起きて私たちは土曜日においしいものを探しに出かけました。

生産者が現地で作ったチーズや野菜はスーパーで売っているものとは比べ物にならないくらいの新鮮さと味わいがあり、私たちのフランスでの生活の大きな楽しみの一つでした。

そしてあの1986年の4月は忘れられない春となりました。
チェルノブイリのニュースはすぐにフランスにも伝わりました。
しかし、当初はヨーロッパの端のウクライナはあまりにも遠く、大変なことになったとは思いながら、その危険な実感を感じることはありませんでした。
ところが、風の向きが変わって、放射能がアルザス方面や南フランスに向かうようになったのす。

4月は待ちに待ったアスパラガスの季節です
根までやわらかい取り立ての白いアスパラを食べることは春の到来を実感する大きな楽しみのひとつでした。
そのような新鮮はアスパラはもちろん市場でしか手に入りません。
今でも湯気のでているゆがいたばかりのアスパラは夢にまで出てきます。

ところが、その4月、タイムなど多くの香料やお茶やエスカルゴとともに、アスパラガスも放射線汚染を心配して食べられなくなったのです!
放射能を浴びて売れなくなったすべての野菜は廃棄される他なかったのです。

仕事場でも研究者達はガイガーカウンターを持ち出し、
大学の構内を調べてみると、どこでもガーガーとすごい音が鳴り響くのです

遠かったはずのチェルノブイリが身近に迫ってきました。
さて今年の春食べられなかった旬の野菜は来年は食べられるのでしょうか?

ところで、フランスは電力の80%は原子力に頼っているのですが、フランスの原子力発電所も時々事故を起こしており公表されていないことが多くあるという話を聞きました。
丁度同じ時期に国内でも原発事故が起こったけど、チェルノブイリに隠れて、話題にならなかったという話も…。

その2年後、私はアメリカのロサンジェルスに仕事場を移しました。
行ってすぐ聞いた話では、チェルノブイリの事故で被爆した人々が白血病になり、骨髄移植が必要になったそうです。
当時移植の技術はアメリカのほうがはるかに進歩しており、アメリカの助けが必要だったと思うのですが、ソ連とアメリカの関係は悪く、政府レベルの招聘は出来なかったので、ロシア系ユダヤ人の大富豪のドクター・ハマーの仲介で個人的ルートで移植のせかいでは大変有名な私の教授がチェルノブイリに呼ばれることとなり、彼自身が飛行機でキエフの病院まで赴くこととなったのです。
飛行機がキエフに着いてみると、なぜか発送したはずの位相差顕微鏡は到着せず、多分途中で盗まれたのでしょう。再びアメリカから送りなおすことになり、仕事はなかなかはかどらなかったそうですが。

いずれにせよ、私は何かの機会にチェルノブイリ原子力発電所事故の事を聞くたびに、食べられなかったあの年のアスパラガスのことを思い出すことになってしまったのです。
posted by ようこ先生 at 19:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2009年08月05日

フランスの話①

私がフランスに行ったのは1980年の6月でした。いまからもう29年前。その翌年は初めて社会党が政権を取った年で、歴史的な大統領選挙に向けての政治議論が盛り上がっているところでした。

多くの驚きがありました。まず、人々の議論好きなこと。お掃除のおばさんがモップを持って政治論議に夢中になります。話題は、当時冷戦中の世界を揺るがしたポーランドの民主化運動のさきがけになった「連帯」運動、いまでもまだまだ解決していないパレスチナ問題…

看護師、患者さん、教授…。どこに行っても、ポリチック(政治)、ポリチック…。私は透析室にいましたが、患者さんたちはテレビを囲んで手を振りながらワイワイガヤガヤ、日本のようにおとなしくく、治療出来ない!!!
二人が廊下で政治論議をしていると輪が出来る。
透析室でも左派右派に別れて議論の花が咲きました。
教授はと言えば、彼はドゴール派で保守的でした。

そのほか、患者さんの間は移植の問題でも激しい議論が起こっていました。
また、自分の国の話だけでなく、パレスチナ問題や外貨や経済のことも話題になりました。

とにかく、政治が自分の生活に直接関連があるという認識があるのですよね。ポーランドで何か起きるとフランスにポーランド人がやってきたり。
私のいたストラスブールは「ヨーロッパのおへそ」と言われて、外国でなにかあると亡命者がやってきたり、そんな町だったのです。

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まさに「民主主義」を実感した瞬間でしたね。

いま日本でも自民党と民主党の間の政権交代の話があり、少しは盛り上がってようだけど、なんか騒ぎ方がぜんぜん違ったと思います。投票率1つとっても、80%超えていたのではないでしょうか?

投票率だけでなく、女性の就業率も90%超えていたと思います。
現在フランスは先進国の中ではもっとも出生率が高い国ですが、当時は少子化が大きな問題になっていました。あれからずいぶん成果が上がったのですね。

あの頃はそういう時代だったのかもしれませんね。
連帯、光州事件、チェコの「プラハの春」の余波とか…

ストラスブール大学の壁にも当時日本の大学でもよく見られた「反帝国主義」の立看があったり、パリの68年5月を経験した人があっちにもこっちにもいたり。

フランスはヴェトナムのポートピープルをたくさん受け入れて、パリでもヴェトナム料理店の通りが出来ていましたし、直前までイランのホメイニ師が亡命していたり(周りにイラン人の学生がいて、ホメイニ派とか反ホメイニ派とか彼らの間で議論していました)。

外国出身の人たちは一人ひとりが人生の(政治に関する)ドラマを背負っている感じがしましたね。

私の教室にもシリア、アルゼンチン、アメリカの人がいました(当時は中国、韓国の人はいなかったです)
仲良くなっていると彼らのお国の事情が分かってきます。

いまでもそうですが、北アフリカの人たち(マグレバン)の文化や宗教違いは大きな問題になっていました。

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驚きは政治もそうですが、フランス人の人付き合いと言おうか、交流に対する積極的な姿勢もそうでした。

フランスに行ってすぐに、大学病院の同じ科の同僚の家族に招待されて、森を歩いたり、お宅でご飯を食べたり…。

森を歩くと、戦争の傷あとが残っているのです、砲弾のあととか。
日本ではでは沖縄以外ではそのようなもものは見たことがなかったです。
アルザスでは塹壕を見ましたし、ストラスブール大学の人体実験のあともショッキングでした。
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それはとにかく、夜の8時からお宅に招待さえて、どこのお宅でもすごいご馳走なんですよ!
男性も女性も料理をして、アペリティフから肉・魚料理からデザートにいたるまでぜんぶ手作り。

私たちは外国人なのに、いきなり立ち入った質問攻めに会いました。
必ず出る質問は「あなたの宗教はなに?」。
あとで考えてみたら、私の行ったアルザスはフランスでは特殊な土地で、ドイツに近いせいかプロテスタントの人もいて、宗教が大きな話題になるのです。
日本人の宗教観を説明するのが一苦労で、また無神論の人も無神論の人で、けっこう気合が入っているのです。

子供が幼稚園に行っていましたが、父兄からもすぐに招待されました。

言葉も最初はなかなか出来なくて、手振り身振りでそれなりに議論に加わりました。
フランスでは奥さんでも料理をすると奥に引っ込んでいることが出来ないのです。

そして、呼んでもらったら必ずお返し!
ホームパーティに慣れていない私たちは大変でした。
仕事より大変だったかもしれない。

そんなわけで、行く前は心配していましたが、仕事でもプライベートでも忙しい毎日を送ることになりました。

フランスに行く前に、自分がフランスで暮らせるとは思ってなかったですね。
アメリカなら先輩がいて、現地であれこれアドヴァイスがもらえるけど、フランスでは誰もいなかったし、外国人でも言葉が出来ないのに
向こうから積極的に話しかけてくるですよ。

私は当初はプライドが捨てられなかった(笑)ので、フランス語が話せない状態が耐えられなかったです。
大学病院では私のことを皆「静か日本人」と呼んでいました。

ところが、気胸になって1ヶ月間、家で静養しなくてはならなくなりました。
その間に特別フランス語を勉強していないのに、なんと、復帰したら話せるようになっていたのです。
不思議、不思議!!!

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大学病院のシステムは日本と全然違います。
各科別々の建物があって、400年くらいのそれぞれの歴史があるのです。

日本でも九州大学や東大も少し似た雰囲気があります。

この話はまたの機会にしたいと思います。
posted by ようこ先生 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

なぜ「文化的がん治療」なの?

フランスの話の前に…。

免疫とは?
自分の体にとって害のある異物を排除することです。

すべて生き物(アメーバでも!)にそれは備わっています。

免疫はひとつの細胞がはたらいているのではなく、社会の仕組みのように、いろいろな細胞が連鎖的に働き、刺激したり刺激されたりしながら、一連のネットワークを作って完結していく、まるで神経細胞のようにつながった仕組みなのです。
そしてそういった仕組みも原始的なものから高等ものまで何種類もありますが、大きく分けると「自然免疫」と「獲得免疫」のどちらかに分類されます。

たとえばナチュラルキラー細胞はがん細胞を見つけるとかたっぱしからやっつけていきます。これが自然免疫の代表的細胞です。

ただ、中世の戦争のように一人の兵隊がもう一人の兵隊を殺すといった非能率なやり方であり、がんの組織のような軍団で来られるとこういった免疫の力だけでは敵はあっという間に倍倍と増えていくのでとても間に合わないのです。

人間の歴史の中で、戦争のやり方も進化したように、免疫のシステムも生物が高等になるに従ってどんどん進化してきました。

いまもっとも進化した免疫のシステムは皆さんもご存じのハシカのワクチンをしたときに使われる「獲得免疫」の力です。

「獲得免疫」のほうは一度成立すると一生あなたの体を守ってくれるシステムです。

がんを攻撃するためには最終的にはこういう免疫の力をつくっておかなければなければ再発を防ぐことは出来ないと思います。

その方法のひとつがが今私達がクリニック・サンルイで用いている「樹状細胞療法」なのです。もちろんこの力も万能ではありません。

本来こういった免疫が成立した場合、がん細胞は消えるはずなのですが、がん細胞というのは敵としては強敵の部類で、ありとあらゆる生き延びるための手段をもっているのです。だからある意味ではひとつの手段だけでがんを消滅させてしまうことは不可能です。

とにかく一定以上大きくならなければいいわけで、共存しながら、ゆっくりと、気長に治療を続けることが大切になります。

どうすれば共存できるのか?

最も大切なことは明るく軽やかで人間的かつ文化的ながん治療をめざすことだと思います。私が、関係があるようなないようなフランスでの経験やアメリカでの経験を書き始めたのも、がん治療に対する私の深い思い入れがあってのことです。
posted by ようこ先生 at 18:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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