2009年08月05日

フランスの話①

私がフランスに行ったのは1980年の6月でした。いまからもう29年前。その翌年は初めて社会党が政権を取った年で、歴史的な大統領選挙に向けての政治議論が盛り上がっているところでした。

多くの驚きがありました。まず、人々の議論好きなこと。お掃除のおばさんがモップを持って政治論議に夢中になります。話題は、当時冷戦中の世界を揺るがしたポーランドの民主化運動のさきがけになった「連帯」運動、いまでもまだまだ解決していないパレスチナ問題…

看護師、患者さん、教授…。どこに行っても、ポリチック(政治)、ポリチック…。私は透析室にいましたが、患者さんたちはテレビを囲んで手を振りながらワイワイガヤガヤ、日本のようにおとなしくく、治療出来ない!!!
二人が廊下で政治論議をしていると輪が出来る。
透析室でも左派右派に別れて議論の花が咲きました。
教授はと言えば、彼はドゴール派で保守的でした。

そのほか、患者さんの間は移植の問題でも激しい議論が起こっていました。
また、自分の国の話だけでなく、パレスチナ問題や外貨や経済のことも話題になりました。

とにかく、政治が自分の生活に直接関連があるという認識があるのですよね。ポーランドで何か起きるとフランスにポーランド人がやってきたり。
私のいたストラスブールは「ヨーロッパのおへそ」と言われて、外国でなにかあると亡命者がやってきたり、そんな町だったのです。

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まさに「民主主義」を実感した瞬間でしたね。

いま日本でも自民党と民主党の間の政権交代の話があり、少しは盛り上がってようだけど、なんか騒ぎ方がぜんぜん違ったと思います。投票率1つとっても、80%超えていたのではないでしょうか?

投票率だけでなく、女性の就業率も90%超えていたと思います。
現在フランスは先進国の中ではもっとも出生率が高い国ですが、当時は少子化が大きな問題になっていました。あれからずいぶん成果が上がったのですね。

あの頃はそういう時代だったのかもしれませんね。
連帯、光州事件、チェコの「プラハの春」の余波とか…

ストラスブール大学の壁にも当時日本の大学でもよく見られた「反帝国主義」の立看があったり、パリの68年5月を経験した人があっちにもこっちにもいたり。

フランスはヴェトナムのポートピープルをたくさん受け入れて、パリでもヴェトナム料理店の通りが出来ていましたし、直前までイランのホメイニ師が亡命していたり(周りにイラン人の学生がいて、ホメイニ派とか反ホメイニ派とか彼らの間で議論していました)。

外国出身の人たちは一人ひとりが人生の(政治に関する)ドラマを背負っている感じがしましたね。

私の教室にもシリア、アルゼンチン、アメリカの人がいました(当時は中国、韓国の人はいなかったです)
仲良くなっていると彼らのお国の事情が分かってきます。

いまでもそうですが、北アフリカの人たち(マグレバン)の文化や宗教違いは大きな問題になっていました。

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驚きは政治もそうですが、フランス人の人付き合いと言おうか、交流に対する積極的な姿勢もそうでした。

フランスに行ってすぐに、大学病院の同じ科の同僚の家族に招待されて、森を歩いたり、お宅でご飯を食べたり…。

森を歩くと、戦争の傷あとが残っているのです、砲弾のあととか。
日本ではでは沖縄以外ではそのようなもものは見たことがなかったです。
アルザスでは塹壕を見ましたし、ストラスブール大学の人体実験のあともショッキングでした。
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それはとにかく、夜の8時からお宅に招待さえて、どこのお宅でもすごいご馳走なんですよ!
男性も女性も料理をして、アペリティフから肉・魚料理からデザートにいたるまでぜんぶ手作り。

私たちは外国人なのに、いきなり立ち入った質問攻めに会いました。
必ず出る質問は「あなたの宗教はなに?」。
あとで考えてみたら、私の行ったアルザスはフランスでは特殊な土地で、ドイツに近いせいかプロテスタントの人もいて、宗教が大きな話題になるのです。
日本人の宗教観を説明するのが一苦労で、また無神論の人も無神論の人で、けっこう気合が入っているのです。

子供が幼稚園に行っていましたが、父兄からもすぐに招待されました。

言葉も最初はなかなか出来なくて、手振り身振りでそれなりに議論に加わりました。
フランスでは奥さんでも料理をすると奥に引っ込んでいることが出来ないのです。

そして、呼んでもらったら必ずお返し!
ホームパーティに慣れていない私たちは大変でした。
仕事より大変だったかもしれない。

そんなわけで、行く前は心配していましたが、仕事でもプライベートでも忙しい毎日を送ることになりました。

フランスに行く前に、自分がフランスで暮らせるとは思ってなかったですね。
アメリカなら先輩がいて、現地であれこれアドヴァイスがもらえるけど、フランスでは誰もいなかったし、外国人でも言葉が出来ないのに
向こうから積極的に話しかけてくるですよ。

私は当初はプライドが捨てられなかった(笑)ので、フランス語が話せない状態が耐えられなかったです。
大学病院では私のことを皆「静か日本人」と呼んでいました。

ところが、気胸になって1ヶ月間、家で静養しなくてはならなくなりました。
その間に特別フランス語を勉強していないのに、なんと、復帰したら話せるようになっていたのです。
不思議、不思議!!!

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大学病院のシステムは日本と全然違います。
各科別々の建物があって、400年くらいのそれぞれの歴史があるのです。

日本でも九州大学や東大も少し似た雰囲気があります。

この話はまたの機会にしたいと思います。
posted by ようこ先生 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

なぜ「文化的がん治療」なの?

フランスの話の前に…。

免疫とは?
自分の体にとって害のある異物を排除することです。

すべて生き物(アメーバでも!)にそれは備わっています。

免疫はひとつの細胞がはたらいているのではなく、社会の仕組みのように、いろいろな細胞が連鎖的に働き、刺激したり刺激されたりしながら、一連のネットワークを作って完結していく、まるで神経細胞のようにつながった仕組みなのです。
そしてそういった仕組みも原始的なものから高等ものまで何種類もありますが、大きく分けると「自然免疫」と「獲得免疫」のどちらかに分類されます。

たとえばナチュラルキラー細胞はがん細胞を見つけるとかたっぱしからやっつけていきます。これが自然免疫の代表的細胞です。

ただ、中世の戦争のように一人の兵隊がもう一人の兵隊を殺すといった非能率なやり方であり、がんの組織のような軍団で来られるとこういった免疫の力だけでは敵はあっという間に倍倍と増えていくのでとても間に合わないのです。

人間の歴史の中で、戦争のやり方も進化したように、免疫のシステムも生物が高等になるに従ってどんどん進化してきました。

いまもっとも進化した免疫のシステムは皆さんもご存じのハシカのワクチンをしたときに使われる「獲得免疫」の力です。

「獲得免疫」のほうは一度成立すると一生あなたの体を守ってくれるシステムです。

がんを攻撃するためには最終的にはこういう免疫の力をつくっておかなければなければ再発を防ぐことは出来ないと思います。

その方法のひとつがが今私達がクリニック・サンルイで用いている「樹状細胞療法」なのです。もちろんこの力も万能ではありません。

本来こういった免疫が成立した場合、がん細胞は消えるはずなのですが、がん細胞というのは敵としては強敵の部類で、ありとあらゆる生き延びるための手段をもっているのです。だからある意味ではひとつの手段だけでがんを消滅させてしまうことは不可能です。

とにかく一定以上大きくならなければいいわけで、共存しながら、ゆっくりと、気長に治療を続けることが大切になります。

どうすれば共存できるのか?

最も大切なことは明るく軽やかで人間的かつ文化的ながん治療をめざすことだと思います。私が、関係があるようなないようなフランスでの経験やアメリカでの経験を書き始めたのも、がん治療に対する私の深い思い入れがあってのことです。
posted by ようこ先生 at 18:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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